醜さを愛す
街のショーウインドウ。
リーガルハイご覧になりましたか?
私は観たり観なかったりですが、すごくふざけているようで、最後は心のことに通じるすごく深いていいこと言ってるなーと思って、なるべく観るようにしていました。
今日は最終回でしたが、またいいこと言ってました。
口のわるーい弁護士が
正義を愛する平和主義の弁護士に言うんです。
人間はもともとどうしようもない醜いもの。
その「醜さを愛せ」と。
そうだよなーとつくづく思いました。
人は醜いもので、その醜ささえも愛しく愛すべきものなんだと。
私も今年あるセミナーに出て、あるカウンセラーの方に、私がいかにいい子ぶった人間で、その後ろっかわには、どんな醜い私がいて(それも具体的な事例を挙げて)、それを隠そう隠そうと自分を演じているか、本当の自分で生きていないかということを、7、8人の前で言われました。今日のリーガルハイとそっくり!
私はそのとき涙とともに、スッコーンと殻が破れて、力が抜け、視界が開け、その7、8人の人たちとの一体感を感じたのでした。
醜さを愛することができたら
殻をつけなくていい。
醜さを愛することができたら
自分を隠さなくていい。
醜さを愛することができたら
楽に生きることができる。
醜さを愛することができなければ
いつも醜さを隠さなければならず
演じなければならず
正しいことをしなければと思い
苦しくなっちゃう
醜さを愛さなければ
ありのままの自分を愛することから離れていってしまう。
そして同じように他人の醜さを愛することができず
いい、悪い、正しい、そうではない、で人をみてしまうので
心の中はいつも悶々とストレスでいっぱいになっちゃう
醜さを愛そう
誰だって醜いもの
その上で
自分を
人を
愛そう
それでね、最近担当してくれている美容師さん
どうして毎回こんなに楽ちんに話ができるんだろうって
考えていたら、
その人が自分の「醜さ」(いわゆる短所と言ってもいいかな)をどんどんどんどん、愛おしそうに楽しそうに、(決して悲観的ではなく)、出してくれるので
わたしも自分の「醜さ」をどんどん出すことができ
そこには評価やジャッジメントがないので
鎧を外して話すことができるからなんだなーと今日のリーガルハイを観て気が付きました。
人に対するジャッジメント、自分に対するジャッジメントが少ない人といるととても参考になります。とても楽。
だめだめな自分がおもしろい
だめだめなあなたがおもしろい
醜い自分が愛おしい
醜いあなたが愛おしい
「醜さを愛す」
しばらくこのことをテーマにしようと思います。
それでね、リーガルハイのさらにすごいところは、
弁護士が真実をつきとめ白か黒かを決める仕事であるにもかかわらず
その真実さえもあやふやで、白か黒かで判断、ジャッジメントしない、ということ。
仕事でも人殿関係や自分を見つめるときも、正しい間違っている、ではない。白か黒かで決められることはほとんどないのではないかな~。という立場でまた日常を送ってみます。
そうそう、ちなみに私の大好きなカウンセラーの先生はおじいちゃんですが(すみません)
ネクタイするのがどうしてもきらいで会社をやめちゃった、
という方ですが、最高にお茶目で可愛らしく
先ほどの「醜さ」というのはたとえばそういうことで
そういうご自分をその先生が愛していて、それをそのまんま見せてくれるからこそ、
こちらも安心して、そのまんまを見せることができる。
ということなんだと思います。
人間ってそんなもんなんだと思います。
そんな可愛らしい存在なんだと思います。
そんな可愛らしい存在が一生懸命生きるからこそ価値があるのだと思います。